アイデンティティとは「自他共に認める自分像」です。
「自分はこういう人間だ」という自己イメージの中で、自分自身が誇りや自信を持てる自分像。かつ「あなたはこういう人間ですね」と自分以外の人から認められている自分像。
これら主観的・客観的、両面から見て一致し、かつそれに価値を感じることができる自分像、それがアイデンティティです。
アイデンティティを探る方法
自分のアイデンティティを探る場合、以下の構文に当てはめることが最も近道です。
「私は◯◯です。」
この◯◯に、自分の名前以外の言葉を当てはめる場合、どのような言葉が入るでしょうか?当てはめる際、自分にとって違和感がなく、自信が持て、かつ周囲の親しい人たちからも異論が生まれない言葉である必要があります。
それが自分の(今現在の)アイデンティティを表しています。
アイデンティティの例
例:私は◯◯株式会社の取締役です。
この人は会社で役員をしている自分像に最も違和感がないとしたら、それが「自分らしさ」であると認識していることになります。かつ、他者から見ても会社の役員であることは、簡単に否定されることはないでしょう。
しかし、これがこの人の「アイデンティティの全て」である場合、取締役としての立場が揺らぐ、あるいは退職を迎えるとなると、アイデンティティ拡散状態に陥り、精神が不安定になるはずです。
アイデンティティの2つの視点①「自分らしさ」
アイデンティティには「自分らしさ」という視点が不可欠です。あるいは、自分は何者である時が最も自分らしいのか?というイメージです。
Wikipediaの自己同一性(=セルフ・アイデンティティ)の記事に、大変秀逸な定義が記されています。
「自分は何者であり、何をなすべきかという個人の心の中に保持される概念」
自分はどういう人間で、何をして生きていくのが自分らしいのか?もう少し具体的には、どのような職業に就くべきか、生活の中でどういう役割を担うべきか?といった疑問に、はっきりと答えられる自分像こそ、アイデンティティと呼べるものです。
※アイデンティティは「自己同一性」と訳される事が大多数ですが、本記事では、より生活の中での実用性を考慮して、出来る限り平易な表現に置き換えています。
アイデンティティの2つの視点②「他者の承認」
アイデンティティには、さらにもう1つの視点である「他者の承認」が不可欠です。
「これがオレなんだ!」「これが私なんだから!」と声高に叫んでも誰もそれを認めてくれない場合、その「自分らしさ」を持続することはできるでしょうか?アイデンティティとは社会性を含んだ概念ですので、他者や社会が認めないものをアイデンティティと呼ぶことはできないことになります。
自分に始まり、社会を通じて、自分のものになる
ある人が「私はミュージシャンです」と語るとします。誰も認めてくれていないなら、それはアイデンティティにはなり得ませんが、一人でも応援してくれる人がいるとすれば、小さくともミュージシャンとしてのアイデンティティが芽生えていることになります。
アイデンティティ概念を提唱した精神分析学者E.H.エリクソンは、その著書である「ライフサイクル、その完結(E.H.エリクソン/J.M.エリクソン著、村瀬孝雄/近藤邦夫訳 みすず書房)」のp158に以下のような記述があります。
”我々の出くわす最大の問題は、このように「我々が何者であり、何者になろうとしているか」について、自分自身の考えるものと他者が考えるものとの間に生じる。他の人々は私をどのような人間と捉えているのだろうか?”
つまり、自分自身が「私は◯◯です」と自分を定義したとしても、それが他者から見て適切だと感じられるものかどうか?一方で、「あなたはこういう人間でしょ」というレッテルを貼られるだけでなく、自分自身が思う、価値を感じる自分像は何なのか?この両面が、一致した自分像がアイデンティティだということになります。
アイデンティティとは育ち続けるもの
このように、アイデンティティとは自分目線と他者目線の両面によって磨かれ、生涯成長していくものです。自分らしく生きることを選択し、最初はそれが人に理解されないかもしれない。しかし、一人、二人と理解者が増えるごとに、そのアイデンティティは確信に変わっていくものです。
また成長するにつれ、自分自身のアイデンティティを表現する言葉も、だんだんと変わっていくでしょう。しかし、自分の根底にある自分像は、成長してもその本質が変わらない、一貫していることが理想です。
本記事が、アイデンティティについて悩む多くの人たちにとって、少しでもお役に立てれば幸いです。
【すべての人にアイデンティティを】